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2008年03月24日

躁転

佐野は双極性障害Ⅱ型持ちである。そろそろ躁転しそうな予兆がする。
流石に精神科に6年も通院しているとどことなく自分が変化する予兆を感じ取る事が出来る。それが、向精神薬の効き目だったり、思考パターンだったりと様々なものに現れてくるのだ。

双極性障害と診断されたのが、大学1年の6月頃だったと思う。
それまでは、「うつ状態」とか「大うつエピソード」という診断だったが、この頃にRC型の躁が現れて、双極性障害という病名に変更された。幸いにも、発症前からてんかんの発作予防と鬱の安定化の為にデパケンを処方されていたので、重症化はしなかった。RC型はそれ一度で、後は大体10ヶ月から1年をサイクルに軽躁と鬱が交互に現れてくる。

今度、躁転すれば4回目の躁である。
双極性障害Ⅱ型の厄介なのは軽躁だということだと思う。睡眠時間は短くても問題なくなり、多弁になったりと、病気を知らない人は軽躁が病気の回復であると勘違いしてしまうのではないだろうか。回復などというのは大きな間違いで、その後に反動を伴う鬱が待っているのだが、それはこの病に慣れた当事者しか分からない。また、双極性障害の中でもⅡ型はアルコール依存や自殺率の高さが治療をより困難なものにしている。

こんどの躁期はどうなることやら。

投稿者 佐野 : 01:08 | コメント (0) | トラックバック

2008年03月20日

中央研修会(その5)

これで中央研修会関係は最後のエントリーです。

その後、高校の同級生はその日のうちに提出しなければならない書類があるとのことなので、その大学まで東京見物を兼ねてついて行った。大学で一休みしていると、やはり都会の大学生は小洒落ているな、と思っているともう用事が終わった。曰く、単に事後報告と作成済み書類提出のみらしい。何故か近くにある神社に参拝して、そのまま下宿があるという三軒茶屋まで地下鉄で移動。
東京都特別区内のJRなら良く使う路線図は頭に入っているので大して困ることは無いが、地下鉄は勝手が違う。この巨大都市の中で毛細血管の如く今も拡張し続けている。それゆえ大学から三軒茶屋までの間は友人の後をつけるのが精一杯だった。

下宿には他人を上がらせない主義らしく、暫くこの後どうするかを協議して、一旦荷物を預かってもらって、近くの居酒屋で食事をとることにした。お互い東京と西日本の端では距離的にもスケジュール的にもなかなか会うことができず、もっぱらメールの交換で会うのは3年ぶりである。熱いビビンバを突きながらお互いの近況を報告したり、他愛の無い雑談をした。
そこそこ大きい大学でも、自分たちの様に同じ高校から同じ専攻へと進んだという例はあまり無いらしい。さらに佐野は高校は理系で友人は文系という珍しさである。

食事が終わった後、一つ探求書があったので近くの書店まで案内してもらうが、見つからず、結局3店ほど行ったが、在庫切れということだった。さすがに何時間も一冊の本に付き合わせるのは悪いので、下宿に戻り、電話で紀伊國屋に問い合わせを行う。暫くして、新宿本店なら一冊だけ在庫があるということなので、取り置きを頼んだ。
今までインターネットで紀伊國屋に発注をしたことがあるのだが、実は本店は一度も行ったことが無い。道に迷うのでは、との心配にも、友人は地下鉄から上がればすぐわかると言う。結局、友人が言ったように地下鉄の階段を上ると、すぐ紀伊國屋の看板が見えた。レジで本を受け取り、中央線経由で東京駅に戻り、東海道新幹線で帰路についた。

長文にもかかわらず、最後までお付き合いしてくださり、ありがとうございます。

投稿者 佐野 : 00:51 | コメント (0) | トラックバック

2008年03月19日

中央研修会(その4)

そして研修会も最終日へ。

昨日のグループ別ディスカッションの結果として、全グループの前での総括発表を行った。
発表原稿は東京の某大学で学ぶ女子の方が夜を徹して練り上げたので、非常に洗練されており、グループの主張が明確であったと思う。どんなグループにもいるこういう人には頭が下がる。
ただ、一つ残念だったのが、他のグループに佐野のグループと似たテーマで発表があったことである。プラスに考えれば討論による意見の相乗とも取れるが、まだ社会経験の薄い大学生にそれを求めるのは少々厳しいのではないのかと思う。もう参加する必要はないが、来年以降の主催者の動向に注目である。

研修の最後に演習として、小論文の提出があった。
主催者のホテルでの自由時間に考えておけという理由からか、本来は秘密のテーマが意図的(?)にリークされ、学生の間で流れていた。
佐野も研修日誌を提出した後の睡眠前の時間に骨子を考えていたので、後は肉付けして小論文にすればよい。唯一問題なのは字数制限があり、下書きなしの一発勝負で300~400字に収めなければならないことが大変であった。他の人が続々と書き上げていく中、ひたすら書くという作業はかなり辛いものであることがわかった。定刻までに書き上がらなかった場合は、終わるまで帰れないので、必死になって作業した結果、定刻ぎりぎりで書きあがった。

書きあがった小論文と交換に中央研修会の修了証を交付してもらい、全ての日程は終了。
怒涛の2泊3日だったが、色々と考えさせられることもあり非常に有意義であった。有意義なものになったのもひとえに参加者の自覚と主催側の並ならぬ努力の結果だと思う。そう思ったので、交付時に主催者側の職員に「有難うございました。」と挨拶できたのだろう。

これで全ての大学の基礎講義から始まった一連の研修が終わる。
全て成し遂げれたということで安心と、もう知的好奇心に満ち溢れた研修を受けれないという残念な気持ちとが絡み合い複雑な気持ちだった。

解散の後、同室で知り合った他大学の人と携帯のアドレス交換。社会人だとこれが名刺交換になるのだろうが、学生なので携帯のアドレスを交換した。
本来ならここで新幹線で帰るのだが、ちょっと用事があるので、寄り道をした。詳しくは次のエントリーで。

投稿者 佐野 : 20:06 | コメント (0) | トラックバック

2008年03月18日

中央研修会(その3)

結局、日付が変わっても中々寝付けなかった。

朝食をとって部屋を整理した後に、ホテルを後にする。
今回は運転手が慣れたのか道を間違えるというアクシデントもなく研修施設に到着した。どうやら到着が予定より若干早かったらしく、研修を担当する職員の朝礼が終わっていなかったので、待機することになった。朝礼が終わった後、昨日使用した会議室に入って午前の事務連絡的な参加者全体での朝礼があった。

そうこうしている間に、定刻となり、講義が始まる。
今日は午前中は講義だが、午後はグループ別のディスカッションの時間がある。予め発表原稿を用意してから研修会に参加するよう、主催者から通達があったのだが、果たしてこれで内容が良いのか自信が無い。ディスカッションの第二部にはグループ別討議の時間が用意されている。ひょんな事から議長を務めることになったのだが、上手く進行できるか心配である。
そんな一参加者の心配をよそに午前の講義は進行していく。講師の方の詳細については書けないのだが、世間でもよく知られた肩書きを持つ人の講義もあり、刺激的であった。70歳を過ぎてもまだその口調には若々しさが残っており、参加者の将来への期待が言葉から現れる内容で、恐縮であった。

昼食を挟んで午後。
いよいよ恐怖のディスカッションである。施設の構造がいまいち把握できなかったので、危うくグループ別の会場に到着するのが遅れそうになった。この間に舌下でレキソタンを15mg投与して後のデスカッションに備えてみたのだが、お守り程度だろうか。
ディスカッションでは第一部の全員発表の時間は3分間となっていたのだが、佐野は早口で喋ったにも関わらず時間超過してしまった。超過を知らせる鈴が司会で鳴らされたが、結論まであと少しなので無視して予定原稿を全て朗読した。主催者からのコメントはそこそこ評価してくれた内容であったので、安心した。
全員が発表し終わり、主催者が抜け、ディスカッション第二部が始まった。
佐野を議長にして昨夜グループで決めたテーマについて円卓会議を開く。しかし、皆同じような意見で多様性が無い。会議の方針をブレーンストーミングに変更するが、参加者がブレストに慣れていないのか本来の効果を発揮しない。グループリーダーに協力を求め、なんとかそれらしい意見を列挙して書記の女子学生に渡す。
このディスカッション第二部で出た内容を明日の全体会議で発表しなければならないのだが、この拙い内容から原稿を書き起こしてくれると書記の学生は言ってくれた。有難いことである。

グループリーダーも書記も他大学の学生なのだが、佐野はあまり人見知りをせずに接することができたのは奇跡だろうか。
定刻となり、ディスカッションを終了し、昨日のホテルへと向かった。

投稿者 佐野 : 21:55 | コメント (0) | トラックバック

2008年03月17日

中央研修会(その2)

辺りを夕闇が包み込む頃、今日の研修スケジュールが全て終わり、宿泊施設へ移動する。

宿泊施設は公共交通機関を使えばさほど離れているとは言えないのだが、40人近くの人が大挙して移動するのは迷惑なので、都バス2台を貸切って移動する。すぐに到着、の筈だったのだが、佐野の乗ったバスは運転手の人が道を間違えるという前代未聞のトラブルにより到着が遅れた。

チェックインして、部屋の鍵をフロントでもらう。
夕食の前に荷物を部屋に移動させる必要があるので部屋に向かう。角部屋だったので、見晴らしは良いのだが、同室者が多いのには困った。佐野は見ず知らずの人とすぐに打ち解けるタイプではないので、暗雲たる気持ちになる。同室に同じ大学の人が少ないのは、他大学の人と触れ合ってほしいという主催者の意向らしい。自分の就寝スペースを確保し、夕食会場へ向かう。
この手の研修会は大概食事は質素なものが多いのだが、何故か今回は今までと比べて豪華である。大学からこっそり補助金が出たのか、それとも主催者の見栄なのかは不明である。おそらく永久に解明されない謎として残るだろう。

夕食後に事務連絡があり、その後、入浴や他大学の学生との懇談、研修日誌の記述などをやっているうちに消灯時間になった。消灯後はそれほど騒ぐ人はいなかった。恐らく皆、移動、研修と疲労が溜まっているからだろう。佐野は就寝前に睡眠薬が処方されているのだが、翌朝に睡眠薬が持ち越すとまずいので、量を少なめにした。
その結果、消灯後数時間が経過したが、やはり少量では眠りにつけなかった。ホテルの窓からはNTTの代々木タワーがぼんやりと夕闇に影を作り、航空識別灯の赤白の灯火がよく見える。視線を下にやると明かりが煌々と灯った眠らない新宿の街が見える。
佐野の大学のある寂れた都市ではもう闇夜が支配している時間帯である。この日本という狭い島国でそれほどまでに多様性のある場所が存在することを思うと不思議な気分になった。

投稿者 佐野 : 17:15 | コメント (0) | トラックバック

2008年03月16日

中央研修会(その1)

大学の活動の一環として、東京で開かれる研修会に参加した。

佐野の在学している大学は西日本の東端にあるので、東京と大阪という2大都市のどちらにも行くには不便な場所である。それでも、今回の研修会に参加しないと予定の資格が取得できないので、東京で開催される研修会に参加した。
研修会は佐野の大学以外にもその分野を専攻している学生等が全国から集まって講義やデスカッションを行うというものである。講義の内容を書くと非常にテクニカルタームが多くなり、説明で大変なことになるのが明白なので明記は避ける。ご了承願いたい。今回はそれ以外の出来事について書いてみる。

研修会は代々木駅近くの施設で2泊3日の日程で行われた。
参加者は全員現地集合だったが、佐野は新幹線と山手線を乗り継いで代々木駅に集合した。残念ながら佐野の沿線のJR東海ではまだIC切符が使えないのだが、東京に来てSuicaの利便性に感動する。おそらく、利用可能になったら、即座にIC切符に切り替えるだろうと思う。それ位インパクトがあった。
さて、代々木駅に到着するとトラベルケースを持った同じ大学の学生がいる。彼曰く、集合時間まで時間を潰しているのだという。なお、偶然にも同系統の大学に進学した高校の同級生も今回の研修会に参加している筈である。暫く駅前で待っているとその同級生を発見し、雑談する。こういう同系統の大学に同級生が進学するのはレアケースらしく、周りの学生からは奇妙な視線を送られた。

定刻になったので、予め指定された会場で受付を済ませる。
今回の研修会の会場は人数の割には大きく話によると160人近くを収容できる会議室らしい。机には紙コップが置いてあるなど細かい点まで気配りがされているように感じた。受付が終了した人から、地下会議室で更衣と荷物の整理を行った。一通りオリエンテーションが終わった後、本題の研修に入る。
午後から研修に入った関係で、今日はそれほど内容は進まなかったが、一つミスを犯してしまった。いつも使っている万年筆を更衣の際に地下会議室に放置してしまったのだ。ノートを取らない訳にはいかないので、急遽、新宿の伊東屋で販売されているペリカノという万年筆で凌いだ。まだ購入したばかりでペン先が自分に慣れていない為、書きづらいが仕方ない。そんな状態だったので、次の休憩までは頭によく入らなかった。

そんなこんなで、次の休憩時間に急いで万年筆を取りに戻り、また研修。数コマの講義を受けた後はもう夕闇が迫っていた。

投稿者 佐野 : 23:41 | コメント (0) | トラックバック

2008年03月02日

誤解

そろそろスギ花粉のシーズンである。
花粉症の人はネガティブな気持ちで毎日を過ごしているのではないだろうか。幸いにも佐野の家族にはスギ花粉を含め、花粉症の人はいないので、あまり花粉症が話題になることはない。

花粉症では対処療法として、抗ヒスタミン剤が耳鼻科などで処方されるという話を聞く。
佐野は花粉症ではないのだが、トフラニールを服用してから、光線過敏(所謂、光アレルギー)が現れるようになった。最初は薬剤性のもので、トフラニールの服用を中止すれば止むかと佐野も主治医も思っていたのだが、服薬を止めても治ることはなく、『薬剤性』という言葉が取れて今に至っている。
大体、4月中旬から5月始め頃から発病するので、主治医には抗ヒスタミン薬のエバステルOD錠を処方してもらっている。花粉症で同じ薬が出るシーズンと重なっているので、事情を知らない薬剤師からは、「花粉症ですか?」などという質問を受けることがあった。
そんな時は今までの経緯を口頭で説明するのだが、調剤薬局に保管してある患者一人一人のの薬の飲み合わせや既往症、注意点をまとめたファイルに光線過敏と書いてあるのに気づいていないからだろう。調剤も待たせる訳にもいかず、時間との勝負のような気がするので、そこまで薬剤師に求めるのも酷だと思いつつも、その注意書きの存在意義はどうなるのかは不明である。

花粉症なら2ヶ月ほど飲んで、ピークを凌げばいいが、相手が紫外線だと勝手が違う。
4月から11月頃まで、高い新薬を飲むというのは結構財布に負担がかかるものである。

投稿者 佐野 : 23:05 | コメント (0) | トラックバック