2008年05月04日

雅楽へのいざない

最近は4回生ということもあり、出席しなければならない講義は3回生までと比べるとかなり少なくなった。
無論、これは卒業論文執筆への時間的配慮もあるのだろうが、今まで色々と時間的に拘束されてきた友人らは大学生活を楽しんでいる。

佐野の場合は、まず病気療養が第一なのだが、時間的・金銭的余裕が生まれてきたので、気分転換を兼ねて新たに趣味を作りたいな、と長年思っていたので実行に移すことにした。
趣味は数多あれど、今まで一度は音楽系のスキルを身に付けたいと思っていた。どうせ音楽関係のであれば、日本の音楽を学びたいと思い、今回は雅楽で使われる篳篥(cf.Wikipedia)を習うことにした。篳篥は雅楽の中でも主旋律を担当する楽器ながら、やっている人は少ないという変わった楽器なのである。
雅楽自体、教えてくれる人や場所を探すのは大変である。龍笛などはその中でも比較的簡単に見つかる方だと伝え聞くが、篳篥を教えてくれる人を探すのには難儀した。結局、電車で1時間半近く移動した所にある某雅楽団体の代表の方に周1回のペースで教えてもらうことになった。ちなみにこの方、篳篥の演奏だけでなく、製作も出来るという凄い方である。

楽器がある暮らしからもう5年以上経っているが、果たしてどうなることやら。

投稿者 佐野 : 09:37 | コメント (0) | トラックバック

2008年01月15日

国民の祝日

昨日は成人の日で祝日だった。

所謂ハッピーマンデー法により成人の日は1月15日から浮動するようになった。成人の日だけでなく、体育の日なども動くようになってしまったのである。この法案が審議中は連休が増えて国民の消費が増えるととかなんとかメリットだけを強調して気づいたら成立してしまっていた。
そもそも、祝日は『国民がこぞってその事柄を祝う』のが本義ではないだろうか。少なくと佐野はそうであると思っているし、歴史を重んじる自分の大学ではそう考えている人が多いようだ。なにも理由なくしてその日が祝日に指定されているのではない。それを国民消費だとか、そういう軽薄な理由でもって動かすのは如何かと思うのである。

そういえば成人式といえば近頃は『荒れた成人式』が各地で問題になっている。
ただ、今年に限っていえば、大分事態は沈静化の方向に進んでいるように感じた。もちろん、全く荒れた成人式が無いという訳ではない。大人(主催者)が毅然とした対応を行えば、新成人も無闇やたらと荒れることは少ないのではないかと思う。
別に成人式はパーティではないし、同窓会でもない。そのあたりをしっかりと大人側が見せることが大事ではないだろうか。そんなことを言う佐野自身も昨年は自分自身の成人式に参加したばかりで他人の事に口を出すなど、まだ早いと言われてしまいそうだが、10代の後半からそう思ってきた。

こんな小言は兎も角、新成人に心からの祝福を。

投稿者 佐野 : 09:36 | コメント (0) | トラックバック

2008年01月03日

日本人と宗教

今は正月なので、正月らしい話題を少々。

多くの日本人に対して、「信じている宗教はありますか?」と問うと半数以上の人が無宗教と答える、という統計が出ている。(正確な数字は失念)
それでも、多くの日本人は正月に神社仏閣に初詣に行き、神札・御守を当然のように受ける。本人にとっては、無意識だけれどもこれは立派な宗教行為である。場合によっては祈祷なども受けるかもしれない。そうなると本人は若干は宗教行為であることを意識するようになる、というのが一般論ではないだろうか。このような態度に対して、敬虔な信者はけしからんと眉をしかめる。しかし、これは今に始まったことではない。

明治維新から暫くの後、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴を3つを柱(3条教則)にした大教院と呼ばれる教育機関が教部省(現、文部科学省)に設けられる。ここでは全ての神職と僧侶が教導職という役職に国から任用された。そしてこの国家による教育が始まるのだが、数年後に神道側と仏教側の思想の相違が不満の原因となり3年で大教院は解体される。尚、教育は宗教教育ではなく、国民道徳の向上を狙っていたものであると申し添えしておく。

このように、国家による信仰や思想など微妙なもの教育は大変難しい。これは国家に限らず、伝統宗教団体も教化で同じような問題を抱えている。
佐野が思うに、日本人は強い関係ではなく、ゆるやかな関係を心地よいと思う民族性が原因ではないだろうか。「以心伝心」という日本語にも日本人の民族性が現れているように思う。

そんなことを初詣で篝火に当たり、破邪の色である緋の袴に身を包んだ巫女や神職の方が参拝者に授与している姿を見ながら考えた。

投稿者 佐野 : 21:19 | コメント (0) | トラックバック