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気だるい夏の日差しを背に受けながら書店への道を歩いていた。無意識に少 し熱を帯びながらも、湿り気を持たない空気は初夏を思わせた。店内に入ると 冷房が効いていて、今までの汗が引いていくのがわかった。 書店の中は思ったより混雑していて、今日が休日であることを知らされる。 ふらふらと書店の棚を巡り歩いていると、平積みの本の端で申し訳なさそうに 置いてある本に目がとまった。 夏を連想させるような透き通った入道雲の空と海の背景の表紙。白抜きのフ ォントで『水平線』と書名が書かれていた。書名に使われているフォントが古 めかしく感じた。本を手に取り、ページをぺらぺらとめくっていく。『水平線』 という書名通り、普通の空と海をテーマとした風景写真集だった。なんとなく 懐かしい気持ちになったのは気のせいだろうか。そんな気持ちにさせたその本 を持ってレジへと向かう自分がいた。 当時はその程度しか気持ちを持ち合わせていなかった。 ◆
あの日以来、本は茶色の書店の封筒に入れられたまま車の補助席の資料の山 に埋もれていた。職業柄コンピュータ関連の技術本をよく買う。それらの本の 中に紛れ込んでしまって、記憶からも曖昧になっていた。 プログラミングは楽しい仕事だが、神経を使う。今作業しているのも医療機 器の制御プログラムでそれなりに神経を使ってしまう。そうした仕事の合間に ネットを巡回していると気晴らしになっていい。たまたま閲覧していたウェブ サイトの作者の趣味が写真であるようでサイトには様々な風景写真がアップさ れていた。 その写真の一枚が気にとまった。どこかで見覚えのある風景。どこだろうと 猛烈な勢いで思考が回転する。暫くの思慮の後、あの写真集が気になった。本 音を言うと、無性にあの本の存在が気にかかったのだ。車のキーを手にして階 層までの階段を駆け下りる自分がいた。 結局、捜し求めていた本は見つからずじまいだった。全くの無駄足だった。 助手席の本の山から発見することができず、それでもあきらめきれずに例の書 店を訪れてみたが見つからなかった。しなびた気持ちでマンションのドアを開 け、部屋の照明をつける。虚無感だけが漂っていた。 その本が見つかるまで数日を要した。本は茶色の書店の包み紙に入ったまま の状態で部屋の技術書の中に紛れ込んでいた。 ペラペラとページをめくっていくと、見覚えのある写真がそこにあった。例 のサイトのウェブマスターが撮影したアングルと同じカット、似た風景の写真 だった。どうりで見たことがあると思った訳だ。最後のページには撮影した場 所と時間や機材といった情報が小さな文字で申し訳なさそうに印刷してあった。 最初は何処か遠い場所の写真かと思ったが、意外と近場だった。今から車を飛 ばせば夜明け前には着けるだろう、そう思い込み深夜の世界へ乗り込む。 ◆
助手席に写真集を放り込み、キーを回し、エンジンを吹かす。深夜の静寂な 地下駐車場内に低音が反響しあう。ヘッドライトを点し、車は暗黒の夜の世界 へと滑り出していった。腕時計の針は午前1時を少しまわった頃を指していた。 流石にこの時間帯ともなると人通りは殆どない。いつもの走り慣れた街道を暫 く走ると高速自動車道のランプのオレンジの光の点が見えてきた。点の集合は 時間の経過と共に光の帯びへと変化していった。オレンジ色の光に包まれなが らランプの中を進み、高速へと流れ出す。再びエンジンが唸りを上げた。 3時間半を少しまわっただろうか、道は3車線の高速道から曲がりくねった 2車線の窮屈な農道へと変わっていた。農道は相変わらず山肌を縫うように続 いていた。道の両側は闇に包まれていて様子を確認できないが、開けっ放しの 窓から流れ込んでくる潮の匂いは海が近い事を教えてくれる。この道が海岸線 に沿っているだろうと思って車を進める。暫くの間をおいて、道路沿いに一本 の街灯が立っていた。水銀灯の青白い光に照らされた看板にはペンキで無機質 な『奥野海岸』の文字。 どうやらそこが海岸の入り口のようだった。車を道路沿いの草地に止め、歩 き出した。足元から濡れた布を擦り合わせるような音がした。足元の草は乾い ているのではなく、露に濡れているらしい。いつもは不愉快な音が今日は自然 に感じられた。懐かしい気分になった。砂気を含んだ地面は足がとられてなか なか前に進むことが出来ない。もどかしい気分になりながらも、斜面を降りて いった。そこは砂浜の海岸だった。入り組んだ入り江の先端に位置したその海 岸は海岸といってもさほど大きくなく、夏のシーズンには穴場と呼ぶにふさわ しい位置、大きさだった。 砂の上に寝そべってみた。さらさらとした砂の感触が気持ちいい。空は雲に 覆われて星々は見えない。流木を集めて火をつけた。火は着いたものの、まだ 十分に乾燥していないからだろうか、火は燻った状態が続いていた。立ち上が って、散乱していた松の葉を掻き集めていれてやった。火はぱちぱちと音を立 てて勢いよく燃え上がった。炎に照らされた時計を見た。まだ夜明けまで時間 があった。ただ呆然と燃え上がる炎を見つめていた。理由は上手く説明できな いが、不思議な感じがした。どこかで見た事のある光景だと思った。それが何 時、何処だったか思い出せない。その事が喉に引っ掛かった小骨のようにじれ ったかった。 うとうとと意識がまどろみの中に吸い寄せられていくのがわかった。いつも ならもう床に就いている時間だろう。今の時間を確認しようと腕時計を眺めた。 腕時計の文字盤が赤く照らされて、刻々と時間を刻んでいた。珍しく夜に遠出し たからだろうか、それとも単に睡眠を取っていないからだろうか、いずれにしろ 日の出までは時間があった。どっちでもよかった。 友人達と薪を囲んで話をしていた。新作のゲームの話、クラス内の恋愛の話、 先生の批評の話、どれも他愛の無い話だった。友人達の笑顔が炎に照らされて 輝いていた。それを見て自分も笑った。こうやって集まるのがこれで最後にな るだろう事は誰もが解っていた。大学に入ったらそう簡単には集まれないだろ う。でも、誰一人としてその事を口に出さなかった。薪がパンと勢いよくはじ ける音がした。 その音ではっと目が醒めた。一匹の虫が炎に吸い寄せられていった。そこま では確かに記憶にあった。どうやら夢を見たらしい。 そうかもしれない。 思い出した。 それは水平線の如く、近くいようで、遠い場所だった。そんな事に今更気付いたの かと嘲笑した。 そこまで考えていた時、俄かに水平線の一部が輝き始めた。夜の闇夜は消えつ つあり、空の大部分が明るんできた。 「朝日が昇る。」 友達が叫んだように聞こえた。それは多分空耳だろう。でもはっきりとした音 だった。僕はその水平線の彼方をただ漠然と眺めていた。 fin |