◆ 夏。五月蝿いほどの蝉時雨が鳴るその中を僕は駆け抜けていった。 ◆ 8月の大気は気だるい程に濃密で肌に纏わりついてくる。それゆえ僕を嫌にさせた。端 的に言って『夏』という季節が僕は好きだ。相反することを言っている風に感じられるが、 ただ単に都会の汚れきった夏の空気が肌に合わないだけだと思う。 以前は夏となると体全身で遊ぶ種類の子供だった。夏休みを指折り数えて、待っていた 日々。いざ夏休みになると近所の友達と公園や神社などの空き地で無邪気に遊んでいた。 時には近所の海に出かけては遊んでいた。そんな日々には五月蝿いほどの蝉の鳴き声や真 っ白な入道雲があった。今でも、故郷へ帰るとあの夏の日々を思い出す。あの日からかれ これ十数年が経とうとしているが、独特の夏の雰囲気を忘れたことはない。 故郷へ帰った時に夏の雰囲気を思う存分味わおうと散歩していた時のことだった。夏の 感じを失うまいとゆっくりと歩調を進める。目の前に表れたのは以前会ったときより少し 大人びた感じの友達だった。そんな幼馴染に言われた言葉がある。お前は何も変わってい ないなぁ、と。そういうお前も大して変わってないじゃないか、と突っぱねてやったが、 その友人の言葉は喉にひっかかったままだ。果たして変わらずにいられる人間なんて本当 にいるのだろうか。疑問が解けないまま、短い帰省が終わった。最後の夜、妙に星空が輝 いていたのが印象に残っている。 その翌日から都会暮らしのいつもの日課が始まった。通勤電車に揺られ、疲労して帰っ てくる日々。少年時代の自分なら、こんなはずじゃなかった、と言い訳をしそうな日々。 だがここは田舎とは決定的に違う。都会の喧騒に癒しを求める空間などない。そう自分に 言い聞かせると冷えたビールで思考を紛らわそうとする。ビールの入った冷蔵庫を目指し、 足元の雑誌をかき分けて進んだ。ビールは景気良く炭酸の泡を立てながらグラスに注がれ ていった。その反対に思考はネガティブに変わる一方だ。 ここには大分昔に引っ越してきたように思うが、未だにこの喧騒とは馴染めていない。 田舎で暮らしの人間に都会生活に馴染むことが不可能なのだろうか。それを端的に表して いるのが今の部屋ではないか。子供の頃は神経質と揶揄されるほど整理整頓が出来ていた のに、今の部屋は雑誌が床に無造作に散らかっている。無意味な自問を紛らわそうとグラ スを一気に傾ける。冷たいビールが喉に流れ込んできた。大分、酔いが回ってくるころに なるとそんな思考もどこかへ流れ去ってしまう。350mlのビール1本で解決するのだから安 い男だと自分で嘲笑した。 その気配は唐突に訪れた。嘲笑した瞬間、どこかに忘れ物をしてきたような気がしてき た。また現れる喉に引っかかった感触。子供の頃からよくそんな体験をしてきたが、今回 は異質に思えた。誰かとの大切な約束を忘れたような切迫感。迫り来る思考の雪崩に抵抗 する術もなく立ち上がったままでその後が続かない。強迫的な観念にとらわれて、手帳や スケジュール表の類、タスクリスト、鞄の中まで探しても喉に引っかかった物は得られな い。それらしい回答は得られたのは翌朝、平積みしてあった雑誌の花火大会特集だった。 今日は規模が小さいながらも花火大会が催される。今ではすっかり都会に涼を呼ぶ夏の 定番の行事となっている。だが、この花火大会には余り知られていない歴史がある。それ は昭和の始めの頃。ここがまだ都会と呼ぶにふさわしくないない場所だった頃の出来事だ。 この都市一体は商業を中心とした街で賑わっていた。今住んでいる辺りもマンションが 乱立してコンクリートの森を形成している場所も当時は一軒家が軒を重ねるごく普通の街 だったらしい。 ある夏の深夜のこと、一軒の家の風呂の残り火から火が出た。当時は木造の家が大半で、 消火設備の整っていない路地裏まで一気に火の海に飲み込まれたという。時間が時間であ った為、辺りは一面の火の海と化したという。密集して建っていたという町内の構造も災 いした。結局、火が完全に収まるのには朝までかかったという。もっとも、伝え聞きだか らそれほどまでに消火が遅れたということは無いのかもしれない。だだ、一面の火の海を 沈静化させるには相当の時間がかかることは容易に想像がつく。この大火では睡眠中の人 も多かった為、多数の死者が出たという。その鎮魂の意味で翌年から大火の起きた日に毎 年欠かさず花火大会が行われている。その話を伝え聞いたのは僕がまだこの場所に来て間 もない頃だ。ちょうどその日も花火大会の日の帰りで、無法者の若者の中に取り残された 老人を助けた後に老人から聞いたものだ。都市の歴史を残す一行事だが、今となっては知 る人も少ないと老人はさびしそうに話してくれた。 Tシャツにケミカルウォッシュのジーンズ。左手にはリストバンドを嵌めた格好で花火 大会を眺めようとしていた。そんな簡素ないでたちでビル屋上の冷たいコンクリート壁に もたれ掛かっていた。高いビルは見晴らしがよく、花火をみるには絶景のポイントだった。 ビルの屋上を一人で占拠できるのは雑踏嫌いである僕にとって非常にありがたい。嵌めた アナログの腕時計を確認するまでもなく、定刻通りに花火大会が始まった。 鎮魂の意味を込めた花火大会はどこか悲しい雰囲気だった。自分だけがその花火の理由 を知っているからそう思ったのかもしれない。次々と打ち上げられる花火は、身体の芯ま で届く音と共に夜空を各々の色に染め上げた。 風に流され微かに匂う硝煙の香り。身体全体を振動させる破裂音。全てが心地良かった。 定刻に始まり定刻に終わった。ここの街の人らしいな、とも思う。 夏も盆を迎える頃の涼しい夜風が吹いていた。ほんのりと冷やされた風を全身で受け止 めながら、ぼんやりと考えていた。人間は鳥になれるのだろうか。新しい世界へと旅をす ることができるだろうか。そんな子供じみた質問の解答などわかりきっている。そう自分 に言い聞かせた。もたれかけていた給水塔から屋上の端へと移動する。 錆が出て脆くなったフェンスは意外と簡単に乗り越えられた。素足でコンクリートの上 を歩くと昼間の熱気の残滓が伝わってくる。体温を奪われる前に、世界から飛び出した。 数秒の空中浮遊の後、どすん、という鈍い音が辺りに響いた。そのあとの事は記憶に無い。 ◆ 身体が動くことを確認して瞼をゆっくりゆっくり開ける。 視界に入ってきたのは白い病室の天井だった。身体はいたるところにセンサーが取り付 けられて、異変を監視している。ここは集中治療室だろうか。辺りには慌しく動き回る医 師と看護士の姿が目に付く。暫くは何も考えられなかった。いや、考えようとしなかった だけかもしれない。担当の医師が回ってきて、やっと思考が正常に戻りつつあった。あれ だけの転落事故で死ななかったのは幸いだった、ようなことを言って身体のあちこちを触 って痛みが無いか確認していった。幸いかどうかはわからないが、身体へのダメージは少 なかった。あくまでも冷静に事務的に作業を終えると、医師は白衣の裾を翻して次の患者 へ移っていった。 いや違う、僕はあくせくした世界から本当の世界へ飛んでいきたかったんだ、とまだ完 全には状況を把握できていない頭の中で呪文のように繰り返す。 動かしてはいけないと指示された体でゆっくりと頭だけを動かす。首元に鈍い痛みが走 る。病室内を見渡すと窓が少々開け放たれていた。その微かな隙間から吹き込む風に揺ら れてカーテンが捲くし立てられる。窓越しに見る空は痛いほどに青かった。青を背景とし て夏らしい入道雲がもくもくと沸いていた。どこかで見覚えのある懐かしい光景だった。 他人には聞こえないような小さな声で一人呟いた。 「うみへいこう……」 fin 本当はもう少し長くする予定でしたが、あんまり無理をするとプロットで死亡するので短めに切ってみました。 一応、主人公は飛び降り自殺を図った訳ですが、失敗します。それが幸か辛かは誰にもわからないでしょう。 お読みいただき、ありがとうございました。 |